武田信玄は名将???

2ch戦国時代板の武田信玄スレッドがなかなか面白い

もし武田信玄が桶狭間の後、美濃に進出していたら? その2 [無断転載禁止]©2ch.net
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<前提知識>

●甲斐武田

前提知識として、源氏一族は身内で殺し合う野蛮な伝統がある。武田も源氏一門である。対称的に、執権北条氏や平清盛一門は身内が結束している。

http://ameblo.jp/g0mao/entry-11415853253.html

 

そもそも将軍である源氏の足利家も鎌倉幕府執権であった鎌倉北条一族を裏切った経緯がある。(しかも、足利尊氏は執権赤橋(北条)守時の妹が正室である。足利義詮は鎌倉北条の血が流れている)

http://ameblo.jp/g0mao/entry-12061455934.html

 

そのような荒々しい源氏の末裔たる武田氏だが、応仁の乱以後は国人衆たちの力が強まり、守護たる武田氏は弱い存在だった(武田信満)。信玄の父信虎は中央集権を進めるべく、改革を行い甲斐を統一したが、国人衆たちに反発され、担がれた信玄によって甲斐を追放された。

 

●周囲の情勢

鎌倉幕府執権北条家は新田義貞によって滅ぼされたが、求心力に乏しい足利家は関東をうまく統治することができなかった。鎌倉公方として足利一門をおいたが、執権北条氏とはなんの関係もないのに、北条を名乗った北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の北条5代が関東を支配することになる。鎌倉公方は北条に滅ぼされ、関東管領は上杉憲政から上杉謙信に引き継がれることとなる(長尾家の家格は低く、上杉家とは血縁関係もない)。甲斐武田氏は室町幕府の役職としては守護であり、上杉謙信の関東管領よりも地位は低い。(といっても、関東管領も鎌倉公方もなばかりのものであるが)

 

今川家は源氏一門である。今川、武田、関東管領上杉、鎌倉公方足利家は名族であり、小田原北条家は下剋上でなりあがった一族である。

 

<信玄は名将??>

武田信玄は小田原北条と今川に力で劣っていたがために、勝てないと判断しかれらと同盟を結んだ。そして越後の上杉謙信と戦うことを選んだわけだが、上杉謙信の領土を奪えなかった。

やむを得ず、今川家を攻めることを決断するわけだが、ここで、今川と婚姻関係のある北条と敵対することとなる。そして、武田義信を廃嫡。後継者は武田勝頼の息子であり、勝頼はその陣代とした。

武田信虎が進めていた中央集権化は信玄によって未完に終わった。後を継いだ勝頼には忠誠心の低い国衆たちが残った。彼ら源氏は野蛮人であり、主君への忠誠などはほぼ持っていなかった。

 

信玄は今川と北条と同盟を維持したまま美濃を攻めればよかったわけである。今川と縁切りをしたために四方八方を敵に囲まれてしまった。今川を縁を切らなければ背後の北条から攻められる恐れはない。勝頼は織田と徳川と北条から同時に攻められた。今川を縁切らなくとも、氏真に器量はないため、いずれ武田が今川を併呑した可能性もある。武力は必要なかった。

今川と縁ぎらなければ、今川家臣の徳川家康に対して、北条・武田・今川と連合して攻めることができた。武田・今川・北条の連合軍に対して、織田と徳川は簡単には手をだせず、信長の甲州征伐はありえなかったと思う。信長は武田と同盟関係を維持し、美濃以東には手をだせなかったのではないか?とすると、秀吉や家康が日本を征服する可能性はかなり低くなり、応仁の乱の後の混乱があと100年ほど続いたかもしれない。

 

<武田信玄は将軍にはならない>

武田・北条・今川の連合軍で信長を討伐し、京を征服した場合、彼らは武田・今川が管領となり、足利将軍を据えて執権政治のようなことをやる可能性が高いと思う。北条は鎌倉公方に任命である。

武田や今川といった名家の武将たちにとって、中央集権的な日本というのは想像しにくく、三好長慶や大内義興のようなポジションを目指すと思う。北条は関東以外には興味はなく、中央の争いにはかかわろうとしない。織田・豊臣政権による全国統一がならなかった場合は、室町幕府のようなものが続くと思う。

 

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[ 2016/11/27 16:21 ] 日本史 | TB(0) | CM(0)

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