人間は神の奴隷であり、神のみが勝利者である

 実家は仏教で、イスラム教に改宗したことはないが、イスラム世界を旅行して、信仰の場という静謐な空間を体験したことは、自分の人生において、かなりの影響を与えたと思う。

 少なくとも、カラオケや居酒屋で騒いでストレス解消するよりも、ああいう神聖とされる場で、心を落ち着かせることのほうが、よっぽど心を安静に保つのではないかと思う。イスラム世界のモスクののんびりした空気は異常に心地よい。自分は基本的に無神論者だと思うが、それでもそう感じる。

 もともと、ローマやギリシアなどの古代オリエント文明が好きだったが、ヨーロッパやイスラム世界を旅行した結論としては、古代オリエント文明の後継者はまさしくイスラム世界であるということ。

  

 「人間は神の奴隷であり、神のみが勝利者である」

 自分に言い聞かせている。

 日本人に分かり易く解説する。すべて自分自身の勝手な解釈であるが、正統な教えからそれほど外れてはいないと想像している。

 人間は宇宙や自然(神とはそういうものだと思う)といった中においては奴隷のごとくちっぽけな存在であり、宇宙や自然の物理法則から逃れることはできない。

 神・・・自然、宇宙、物理法則

 人間と人間・・・x軸
 神と人間・・・y軸

 日本人は人間同士のx軸の関係に極度に怯え、敏感であるが、y軸の、すなわち、自然や宇宙といた概念においては、人間同士の関係性など、宇宙や自然といった概念では塵のようなものである。

 自分自身をy軸のマクロな視点から考えよ。x軸の人間同士の関係に拘泥せず、マクロな視点で考えよ。自分を見つめよ。x軸の人間同士の相対的な価値観で物事を判断するな。y軸のマクロな視点で物事を判断せよ。

 日本人のたいていの悩みはy軸のマクロな価値観をもつことで解消される。別の言い方をすると、x軸の人間の群れから解放されて、群れからの視点ではない、群れを超越した視点で物事を考えろということである。
(イスラム帝国初期においても、アラビア部族集団という群れを超越した価値観が求められた。)


 人間は神の奴隷であり、神のみが勝利者である。

(自分は神は偉大なり、という文言よりも、人間は神の奴隷であるという従属的表現のほうが日本人には馴染むように思う)

 
 現代日本で教育を受けた自分が、イスラム教の本質的な点を考えたとき、日本人的にはこう考えるのが最も馴染むと思う。

 
 日本が欧米に比べて集団同調圧力が高いとよく言われるが、それは一神教文化を受容していないからだと思う。

 
 日本で流行の自己啓発本では絶対に、「人間は神の奴隷であり、神のみが勝利者である」とは書かれていない。群れで生活するためのテクニック(人間関係を円滑にするための知恵)や群れで勝ち抜くためのテクニック(努力して自己実現的なもの)しかない。しかし、それらは結局のところx軸の視点からのものでしかない。
 
 


 話は変わるが、イスラム教ではシャリーア(イスラム法)が重視されるが、これは神が授けてくれた法律とされる。預言者ムハンマドが神の意思を伝えてくれたとされる。預言者ムハンマドが神の声なんて聞いていなくて、政治のためにイスラム教をつくったのは僕にだってわかる。預言者ムハンマドは政治家として優秀な人物であった。
 しかしだ、預言者ムハンマドは神の声を聞いたと仮定され、後世の人々も神というy軸視点を意識して、法律をつくったのだ。すなわち、客観性があるのだと思う。神がつくった法律というと、たいていの日本人は意味不明だと思うだろうが、y軸視点のマクロな視点でつくられたという意味と考えれば、納得がいくのではないか。

 では、日本の法律の起源というと、明治維新のときに欧州の法律を輸入した。理由は欧州が発展していたからである。欧州の法律はもともとローマ法をもとにしており、人と人、すなわち群れ同士、x方向を意識してつくられた法律である。

 
 まとめると、イスラム教は、人間同士のx軸の関係よりも、y軸の人間と自然・宇宙・物理法則(文学的には神)といったマクロな視点を重視するということである。

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[ 2014/09/11 22:44 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

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